家族の解体

私は、家族を解体した。これは、その記録だ。


解体の最初

去年の1月から、私は自宅に家族を残し、シェアハウスに住み始めた。


私がシェアハウスに住み始めた理由

きっかけは、業務ピークだった。

私は会計の仕事をしている。1月は、翌期の予算を決める仕事と、12月末までの締めが重なる。前回の1月は、92時間の残業をした。

朝7時ちょうどに起き、7時20分に家を出る。通勤時間は1時間半。仕事をして会社を出て、家に着くのは23時だ。平日は、自分のことは何もできない。これに加えて、休日出勤が2回あった。

会計の仕事は、業務ピークの時期が明確だ。一年中忙しいわけではない。2月は閑散期だ。それでも、1月を乗り越えるのは辛かった。

一回だけ終電を逃し、会社から徒歩5分の場所にある宿に泊まったことがある。快適だった。午前1時まで働いたのに、翌朝の目覚めは爽快で、元気に出勤した。通勤電車で削られる体力がどれほど大きいかを知った。

会計の仕事は好きだった。でも、会社に行きたくないという気持ちもあった。毎日、疲れていて、眠かった。


私は、副業をしている。ひとりで運営している小さな事業だ。いくつかの会社が、私の作ったサービスを買っている。

利益は、本業の収入には遠く及ばない。それでも、他にないサービスを作り、自分の力で売上を作っているということに、強い喜びを感じていた。

友人として初めて誰かと会う時、私はいつも最初に、この副業の話をした。その後に、会社員として働いている本業の話をする。それがいつものパターンだった。私は、自分のアイデンティティについて、本業よりも副業の方に頼ることが多くなっていた。

1月は、本業の仕事に忙殺される。本業をこなすために、睡眠時間まで削る。副業の仕事など、到底できない。

前回の1月も、副業の仕事がしたい、と渇望しながら、何もできなかった。たぶん今度の1月も、同じように感じるだろう。


去年と同じ苦しみを繰り返すのは間抜けなことだ、と感じていた。今度は、何か改善したいと思っていた。

睡眠時間を確保するためには、片道1時間半、往復3時間の通勤時間を、どうしても削りたい。短期的に、会社の近くに住むのも良いかもしれない、と考えた。


私には妻がいる。私が40歳、妻は46歳。子どもは二人いる。上の子は女の子、下の子は男の子だ。上の子は大学入学から家を出た。妻と下の子と私は同居している。もし短期的にでも家を出るとしたら、家族にどう説明すればいいのか、と悩んだ。

私の家族は、大きな問題のない、良い家族だ。妻とは会話が少ない面があったが、強い信頼はあった。息子も、私を嫌いではないと思う。

息子はいま中学生だ。宿題がわからないと、たまに私に質問しに来た。高校選びのために、一緒に進学セミナーに行ったりもした。少なくとも、そういう程度には仲が良い。

短期的にでも家を出ることは、この家族を壊すことにならないだろうか。少し、恐怖を感じた。それを感じたまま、私は、会社の近くに住むため、具体的な手段を調べ始めた。


新宿に安く住むための手段

短期的に新宿に住むため、様々な手段を比較した。

最初は、平日夜にホテルへ泊まることを考えた。しかし、すぐにあきらめた。

最近、新宿の宿はとても高くなっていた。職場から徒歩圏だと、どんなに安くても一泊8000円は必要だった。一週間のうち月曜夜から木曜夜まで泊まるとして、一ヶ月だと16泊。約13万円かかる。

次に考えたのは、ウイークリーマンションだ。しかし、そちらも高かった。一ヶ月借りると、最も安くても約10万円。気軽に借りることができる金額ではない。

10万円と自分の睡眠時間と、どちらが大事なのか、と自問自答した。私にとっては、どちらも大事なものであり、決断できないように思えた。

決められないまま、12月の下旬を迎えた。また同じ1月を過ごすのだろうか。自分の臆病さを確認してしまった気がして、気が滅入った。


そんなある日、友人がシェアハウスに住んでいるのを、ふと思い出した。そのキーワードを調べたことはなかった。Googleの検索窓に「シェアハウス 新宿」と入れて検索した。すると、見たことのない金額の物件があった。

月額4万7000円だという。家賃が4万円、共益費が7000円。それと、初期費用が2万円。水光熱費も込みだ。こんな安い物件があるのか。バス一本で職場まで行ける場所だった。通勤時間は15分程度で済みそうだ。

よく見ると、この物件は相部屋だった。8畳くらいの部屋に二段ベッドが2つあり、合計4人が入居する作りになっていた。なるほど、だから安いのか。同じ建物内には個室もあったが、そちらはもう少し高かった。

初期費用2万円+月額4万7000円、合計6万円台の費用で、通勤時間が1時間半から15分に縮む。この金額を見て、私の心は決まった。ここまで安いのなら、決断できる。相部屋なのは気になるが、どうせ忙しい一ヶ月だ。あまり不自由は感じないだろう。

そう考えた私は、シェアハウスの運営会社に入居の連絡をした。


家族と離れることへの恐れ

一ヶ月限定とはいえ、家を出て離れて住むことを、私の家族は、どう感じるだろうか。とても不安だった。


私と妻は、信頼は強い。しかし、会話は少ない。

私は、妻の幸せを願っている。しかし私は、妻の幸せを作れていない。

妻の不幸の回避には、私は役に立っていると思う。衣食住を維持するためのお金は、私がしっかり稼いだ。生活の上でトラブルがあった時も、主に私が対処した。

しかし、妻の幸せを直接的に作ることができていない、という無力感があった。

おそらく、妻も同じような気持ちであったのだと思う。お互いに、それぞれが苦手なことについては把握しており、お互いの不幸を回避するのが基本的な行動指針になっていた。

でも、一緒に何か楽しいことをする、という場面は、ほとんどなくなっていた。

たまに美味しいものを食べに行く、という程度のことは、今もある。しかし、大きな楽しみを共有することはない。例えば、旅行にはこの5年で1回しか行っていない。その旅行も、それほど楽しいとは思えなかった。

お互いに強い信頼を維持しながらも、幸せを作ることの難しさを感じていた。


娘も、私を信頼してくれていると思う。

娘は、妻の連れ子だった。私と血縁はない。小学1年生の時に私と妻が出会い、すぐに3人で会うようになった。そして小学4年生になる春休みに結婚し、3人で家族になった。


娘は、まっすぐに育った良い子だ。

娘が小学2年生のとき、授業参観があった。当時の私はまだ父親ではなかったが、行くことにしていた。

しかし、娘はひどい風邪にかかり、休むことになった。

妻が学校に休みの連絡を入れた後、娘は私に抱きつき、「かずにぃ、ごめん。。。」と言って、さめざめと泣いた。

私は娘の頭を撫でながら、良い子だな、と思った。風邪をひいたことについて責任転嫁せず、自分の落ち度だと捉え、私に謝ったということだ。娘は、そういう良い子だった。この子の信頼を獲得できている私は、幸せだと感じた。


今は既に大学を卒業し、就職している。去年の秋、彼氏を連れてきて、私と妻に会わせた。

彼氏を親に会わせるという行動は、普通のことかもしれない。でも、その普通の信頼を持ってもらえている、という事実を確認できたことが、嬉しかった。


息子は、結婚した後に生まれた子だ。息子も、私を信頼してくれていると思う。

息子は今、中学生だ。陸上部に所属している。

陸上部に入ると、スパイクを買う必要がある。私も中学時代は陸上部に所属していたので、息子は、スパイクの選び方について、私にたくさんの質問をした。

中学生なので、足の大きさは一年経てば変わる。少し大きめのものを買うか、それとも今の足の大きさにジャストフィットするものを買うか、選択する必要がある。

息子は、「市内で1位になったら、新しいの買ってくれる?」と私に聞いた。私は、買うよ、と答えた。それを聞いた息子は、今の足にピッタリのスパイクを買った。

息子は、何か買ってくれと私にねだることは少ない。しかし、本当に欲しいものについては、私に主張した。息子には、息子の本気を私は理解するだろう、という、私への信頼があったと思う。


私の家族には、少なくとも強い信頼があった。私が家を出ることは、この信頼を壊すことにならないだろうか、と不安だった。

信頼し合えていると感じているからこそ、たぶん大丈夫だろう、と楽観的に考える部分もあった。しかし、自分の感覚が正しい、と完全に信じ切れてはいなかった。


このまま何もせず1月を迎えるのは愚かだと感じていた。既に、シェアハウスの会社には連絡してしまっている。私は決心し、妻に声をかけた。


妻に別居したいと告げた

妻に声をかける。


私「なあ、かーちゃん。」

妻「なによ。」


私と妻は、お互いに、とーちゃん、かーちゃん、と呼び合っている。私が妻と娘に初めて会った時、既に妻は、かーちゃん、と呼ばれていた。それに合わせて決めた呼び名だ。


私「とーちゃん、1月の一ヶ月間、新宿に住みたい。」

妻「・・・いいけど、どうして?」


3秒の沈黙だけで、妻の許可が下りた。


私「1月は、業務ピークで辛いんだ。睡眠時間を削りたくなくて。こないだの1月、毎日遅かったの覚えてる?」

妻「そういや、そんな時期もあったね。」


妻は冷静だ。昔から、度胸が据わっている。うろたえることがない。


私「シェアハウスで、一ヶ月6万円くらいで住めるんだ。そこに住みたい。」

妻「いいよ。頑張ってきな。」


妻との会話は、これだけで終わった。いつもと同じく、この時も、私の不幸を最小化することを考えてくれたのだと思う。

妻は、いつも私を自由にさせてくれる。私がやりたいと言ったことを禁止したことは、たぶん一度もなかった。これからもないだろう。私たちには、お互いの幸せを直接的に作ることは難しい、という感覚がある。だからこそ、妻は私を極限まで自由にさせてくれている。私はそう理解している。


妻の許可をもらった後、息子にも話した。


私「とーちゃん、来月の一ヶ月間、新宿に住むよ。」

息子「え、そうなの。どうして?」


息子も、大きなショックは感じていないようだ。妻が落ち着いた人であることが影響しているのか、情緒が安定した子に育っていた。


私「1月は、仕事が忙しくて辛いんだよ。」

息子「そうなんだ。まあ、いいんじゃない?」


息子の許可も、あっけなく下りた。


娘へは、改まった連絡をしなかった。やはり、家を離れることに負い目を感じていた。たぶん、妻から連絡してくれるだろう。

こうして、私は新宿のシェアハウスに住むことになった。


シェアハウスでの暮らし

シェアハウスへの入居日は、1月9日だった。


入居

シェアハウス会社の人は、私に建物内の説明を簡単に行い、じゃあこれでご案内は終了ですので、と言って去っていった。

だいぶカジュアルな説明だった。いちいち細かい説明をしないのは、人の出入りが多いからなのだろうな、と感じた。


このシェアハウスは、古いが清潔感のある建物だ。1階に大きな鏡が置いてあり、その鏡に「朝日新聞専販所さんへ」と書かれていた。おそらく、ここは昔、新聞奨学生が住む寮だったのだろう。1階の大部分が女子部屋で、2階にリビングとドミトリーがあり、3階と4階はシングルルームになっていた。全体で20人くらいが住んでいるそうだ。


入居者は、約半分が外国籍の人だ。英語が話せない私は不安だった。運営会社の人に聞いてみると、そんなの気にしなくて大丈夫ですよ、という答えだった。

このシェアハウスは、10年以上運営しているらしい。日本で運営しているシェアハウスなのだから、たぶん、なんとかなるのだろう。しかし、不安なものは不安だった。


台湾人入居者さん「コンニチハ!今日キタノ?」


ドミトリーの部屋に入ると、外国語訛りの日本語で話しかけられた。この人は台湾籍の人だった。


私「はい、そうなんです。よろしくお願いします!」

台湾人入居者さん「細カイコト気ニシナイ。ヨロシク!」


この台湾人入居者さんは、このシェアハウスのリーダー的存在のようだった。シェアハウス運営会社と、シェアハウス内のこまごまとした作業の手助けをする契約を結んでいるらしく、共用部のゴミ捨てなどを請け負っていた。


私は、このシェアハウス内で、他の入居者の人たちと、あまり交流を持たないつもりでいた。どうせ1月は忙しいのだし、時間が余ったとしても、その時間は副業につぎ込む。毎日、遅く帰って早く出ることになる。だから、話す機会はほとんどないだろうと感じていた。


日本人入居者さん「今日入られたんですね。」

私「ええ、そうなんです。今月は仕事が忙しいので、短期間だけこちらに住もうかと思いまして。」

日本人入居者さん「ご自宅はどちらなんですか?」


私は、自宅が埼玉にあること、通勤時間が一時間半かかること、子どもが二人いることなどを説明した。積極的には交流を持たないつもりだったが、こちらのことを知ってもらったほうが住み心地は良くなるだろう、という期待があった。


シェアハウスでは、やることがない。個室なら話は別なのだろうが、私が契約したのはドミトリー、相部屋だ。自分が専有する空間がない。

共用部のリビングでゆっくりと過ごすことはできそうだった。パソコンを広げることもできるだろう。しかし、仕事はできないように感じた。周りの人から話しかけられるからだ。


挨拶もそこそこに、1時間ほどで荷物を整理して、私はドミトリーのベッドに潜り込んだ。夜9時ごろには寝た。


朝の衝撃

シェアハウスで迎える初めての朝。私は、5時半に起きた。


起きて顔を洗い、スーツを着てドミトリーを出た。バスに乗り、会社のすぐ近くのファミレスに行った。着いたのは、朝6時ちょっと前だった。

衝撃だった。始業時間の朝9時まで、3時間もある。

通勤時間が短くて済む物件を探したのだから当然のことだ。でも、実際にその時間の短さを体感すると、これまで見たことのない世界を見たような気持ちになった。強い衝撃だった。


モーニングセットを注文しようとしたが、提供時間は朝6時からだという。厳格にルールを守るスタンスのようだ。仕方なく、他のメニューを頼んだ。

私は、ファミレスで副業の仕事をした。とても効率良く進んだ。朝は、頭が冴えるという話をよく聞く。充実した時間だった。

これから、ハイペースで仕事ができそうだ。今年一年で、副業の仕事は大きく進むだろう。明るい未来が見えた気がした。


通勤時間

私は、本業の仕事を、本気でするようになった。


私はずっと、会社を辞めたい、という漠然とした気持ちを持っていた。


私が今、本業でやっている会計の仕事は、私の希望に叶う内容だった。会社では年に二回、異動の希望を募る。私はそこに、管理会計の仕事をしたい、と書き続けていた。それを見た役職者が、私を異動させてくれたのだ。

だから今の仕事は、私の好きな仕事であるはずだった。実際、少し楽しんで働けるようになったと思う。

しかしそれでも、会社を辞めたいという気持ちは消えなかった。この仕事は自分の希望と合致した仕事であるはずだ。それなのになぜ、私は会社を辞めたいと感じているのだろう。私自身にも、その理由がわからなかった。


その状態で今回の1月を迎えた。私は、この一ヶ月、本気で仕事をした。


それまでの私は、どこか逃げ腰で仕事をしていた。

明確に求められている成果物は、必ず期日までに、十分な精度で完成させていた。しかし、そこから先のプラスアルファの仕事は、あまりしていなかった。その意味で、逃げ腰だった。

この1月は、その領域にも手を付けるようになった。何か上司から指示されたわけではない。私の気持ちとして、その仕事を、やらずにはいられなくなっていた。


残業は、全く苦しくなくなった。

前の1月は、朝7時に起きて、7時20分に家を出て、23時に帰宅、24時半頃に寝る、というサイクルだった。毎日苦しかった。

しかしシェアハウスに住んでいる今は、朝5時半に起き、6時にファミレス到着、8時45分まで副業の仕事をして、9時出社。21時半まで仕事をして、22時にシェアハウス帰宅、23時就寝、というサイクルになっていた。このサイクルを、苦痛を感じずに回すことができていた。むしろ、仕事が楽しく感じた。

成果物の精度も上がった。勤務時間は前回の1月と大きくは変わらなかったが、仕事の効率が大きく向上したようだった。もっと仕事を私に投げてくれ、もっとできる、と感じていた。

上司は、あからさまには私を褒めなかったが、私の提案を次々に受け入れていた。私は役に立っている、という実感を持つことができた。それが楽しく、嬉しかった。


通勤時間から開放された状態で働くのは、こんなにも幸せなことだったのか。


これまで毎日、満員電車で1時間半通勤するのは、苦痛だった。これまでの私は、その苦痛から、ずっと、目をそらし続けていた。


朝の日比谷線の混雑はひどいものだ。うっかりドア横に立つと、椅子やパイプに体が当たる。肋骨が折れるのではないか、というひどい強さで圧迫された。それを毎日耐えていた。


片道1時間半、往復3時間を通勤に消費するのは、単純に時間消費としても大きいし、体力も削がれる。これまでの私は、それを、受け入れ続けるしかないことだ、と考えていた。

しかし会社の近くに住むようになって、その苦痛が消えた。そして、これまで受けていた苦痛の、具体的な大きさを知った。


徐々に認識が変わった。私が会社を辞めたいと思っていた原因は、通勤時間の苦痛なのだ、と。おそらく私は、この仕事自体は好きなのだ。


それを確かめるため、転職活動もした。1社から内定をもらった。しかし、やはり、その会社に行きたいとは思わなかった。提示された年収は、今よりも30万円ほどアップする金額だった。それでも、その会社を選択しなかった。


私は、この仕事が好きだったのだ。通勤時間を短縮して、そのことが明らかになった。


実際に行動しなければ、私はずっと、迷いを抱えたまま働いていただろう。私は、大きな納得感を得ることができた。


しかし、それならば、私はこれからどうしよう。


1月の業務ピークが過ぎ、2月に入っていた。家族には、シェアハウスに住む理由を、1月を乗り切るため、と説明していた。

1月が過ぎれば、その理由は消える。でも私は、シェアハウスに住み続けたいと感じていた。これまでの苦痛の原因は通勤の苦しさだった、ということが、明らかになったからだ。

妻と話をする必要がある、と考えた。


シェアハウスに住み続ける選択

意を決して、妻に話した。


シェアハウス延長

私「なあ、かーちゃん。」

妻「なによ。」

私「とーちゃん、もうしばらく新宿に住みたい。」


少し沈黙する。


妻「・・・いいけど・・・」


寛容な妻だが、さすがに少し動揺したようだ。


私「もしみんなで新宿に引っ越してもいいなら、とーちゃんにとってはそれが一番いい。でも、たぶんイヤだろ。」

妻「・・・そうだね、それはないね。」


妻は、とても社交的だ。自宅の近所の飲食店で、パートとして働いている。職場のつながりの友人が、たくさんいるようだった。そのたくさんの友人たちとのつながりと、私と同居することを天秤にかけたら、友人たちとのつながりを取るだろう。そういう選択になるだろうという感覚は、私も理解していた。

それに、もし家族みんなで引っ越すとしたら、息子を転校させなければならなくなる。簡単には決断できないことだと感じた。

別居するといっても、私は週末には自宅に帰っている。つながりを断つわけではない。単に、離れて住むだけだ。


話している私の中に、普通はやらないことをしようとしている、という恐怖心が生まれつつあった。でも、その恐怖は漠然とした恐怖であり、具体的な切迫感のあるものではなかった。

私が通勤の苦しみから逃れ、仕事を楽しむには、家族と離れて住むことが必要だった。今は、それが明らかになっている。恐怖はあったが、判断を変えることはなかった。


私「かーちゃんに渡すお金は、何も変わらずこれまで通り。副業の方は、だいたいうまく行ってる。シェアハウスの家賃は、十分に払える。」

妻「うん。」

私「もし何か大きな不都合があったら、すぐ言って。シェアハウスは、いつでも引き払えるようにしとく。」

妻「わかったよ。がんばってきな。」


息子へは、買い物に行くクルマの中で話した。


私「とーちゃん、もうしばらく、新宿に住むよ。」

息子「え、そうなんだ。」


息子も、落ち着いて聞いてくれた。


私「やっぱり、通勤が辛くてさ。」

息子「土日は帰ってくるんでしょ?」

私「うん、帰ってくるよ。」


動揺がほとんど無いように見えた。私はその反応に、少し寂しさを感じながら話した。


私「副業の方で、作りたいものもたくさんあってさ。お前には迷惑かけるかもしれないけど。」

息子「たぶん大丈夫だよ。」


息子は、相変わらず安定した口調だ。私の方が緊張しているように思えた。


私「不安はないか?」

息子「なんで?」

私「うまく言えないけど、普通はやらないことをするわけだからさ。なんとなく不安、とか。」


もし息子に、やっぱりイヤだ、と言われたらどうしよう、と考えながら話した。


息子「うーん、大丈夫だよ。とーちゃん、やりたいことあるなら、やったほうがいいよ。」


複雑な気持ちになる返事だ。どういう返事が返ってきても複雑ではある。息子の生活にとって私が不可欠か否かと、私の通勤時間の苦しみ、仕事の幸福の実現が、強く絡み合っている。

息子の言葉は、息子の本音であると感じられた。万一、本音でなかったとしても、その言葉を信じることこそが信頼というものだろう。

私は新宿に住み続けることを選択した。


シェアハウスの飲み会

シェアハウスに住み続けるという決断をした。ちょうどその週に、シェアハウス住人での飲み会があった。私は、参加することにした。


このシェアハウスの住人は、半分が外国人だ。私は英語が話せない。中学レベルの英語力だ。

シェアハウス住人の外国人の人たちは、日本語を勉強している人が多い。しかし、上手に話せる人は、ほとんどいなかった。

逆に、シェアハウス住人の日本人は、英語を話せる人が多い。だから、住人同士の会話は英語が使われることがかなりあった。


日本語しか話せない私は、少し不安だった。しかし一方で、住人たちの気ままな生活ぶりを見て、この輪に入ってみたいとも感じていた。私の見たことのない世界が、そこにあるような気がした。


飲み会の場所は、新宿三丁目の居酒屋だった。


シェアハウスに住んでいる人は、学生さんが多い。だからなのか、安く済ませる手段をたくさん知っている。この日は目ざとく、格安の居酒屋を見つけていた。鶏鍋がたっぷり、酒も飲み放題で、ひとり3000円のコースだ。


私の目の前に座ったのは、見たことのない外国人の男性だった。おそるおそる、ゆっくりとした日本語で、あなたは誰なのですか、と聞く。

最初は、こちらの意図がわからないようだった。質問を変え、あなたの名前を教えてほしい、どこに住んでいるのか教えて欲しい、と、質問を具体化し二分割して聞いた。

たどたどしい日本語が返ってきた。以前このシェアハウスに住んでいたけれども、去年出たのだ、という返事だった。今は、別のシェアハウスに住みながら、日本語学校に通っているらしい。


彼は、今日はあなたにあえて嬉しい、と私に言い、グラスを突き出した。乾杯しよう、ということだ。私はグラスを当て、一気に飲んだ。私は、日本語のカンパイの意味を知っているか、カンパイは、グラスを乾かすという意味だ、と伝えた。彼はそれを聞くと、私の真似をして一気に飲んだ。彼は飲み干したあと、私に握手を求めた。私が応ずると、彼はYou are my friend、と言った。


この会では、こういう素朴な、取るに足らない会話を、参加した人たちと重ねた。

率直に言えば、こんな会話は、コミュニケーションを取っているうちに入らないだろう。しかし、実感としては、深く仲良くなった、と感じた。お互いのことは、ほとんど知ることができていない。でも、新しい親友ができたような気持ちになった。

この日の参加者は、15人くらいだった。そのほとんどの人と話すことができた。全員がフレンドリーだった。

十分な意思疎通ができたとは、到底言えない。それでも、この上なく楽しい会だった。


この会以降、私は都合がつく限り、シェアハウスの飲み会に参加した。


飲み会は、多くの場合、シェアハウス内の共用部で行われていた。気が向いた人が自由に参加する会だ。


秋には、ハロウィンパーティーも開かれた。15畳ほどの共用部スペースに、入居者の友人たちもたくさん集まった。30人ほどが、ひしめき合って飲んだ。

仮装した人も多いので、余計にスペースが足りない。言葉も、日本語と英語だけではなく、フランス語、中国語、スペイン語などが話されているようだった。ほとんど会話など成り立たない。しかし、乾杯をし、握手をし、仮装にたどたどしいツッコミを入れながら飲んだ。おそらく、人生で最も楽しい飲み会だった。


転居していく住人たち

シェアハウスの住人たちは、いとも簡単に引っ越していく。

このシェアハウスでの生活は、最高に楽しく、居心地が良い。ずっとここに居たい、と思える場所だ。しかし、引っ越していく人は多かった。

それが、私は不思議で仕方がなかった。最高に楽しい、と思っているのは、私だけではないはずだ。日々、共用部のキッチンで話し、笑い合っている。実際、このシェアハウスを出て行った人も、飲み会などには参加することが多かった。わざわざ移動時間を費やしても、ここに来てみんなに会いたいのだ。この場所に愛着がある証明であるように思えた。

しかし、それでも毎月のように、誰かがこの場所を出ていく。

きっと、変化を好むタイプの人が多いのだろうと思う。でも、それにしたって、これだけ楽しんでいるこの場所を離れることは、もったいない選択のように思えてならなかった。


シェアハウスの住人

シェアハウスには、サラリーマン生活の日常では出会えないタイプの人が、たくさんいる。


まず、外国人の人。全体の半分くらいを占める。

その半分の中の多くは、日本語学校に通いながら、留学ビザでアルバイトをして生計を立てている人たちだ。

シェアハウスの家賃を払い、それに加えて日本語学校の授業料を払いながら日本で暮らすのは、簡単なことではないと思う。アルバイトの時給は、高くはないはずだ。たぶん、日本を愛してくれているのだと思う。純粋に日本に興味を持ち、日本に住む手段として留学ビザを選択し、多くのお金を払いながら、日本の生活を楽しんでいるのだろう。


他の外国人の人たちは、何らかの仕事を持っている。デザイナーや、映像制作・DJなど、芸術の分野で働く人が多い。シェアハウスの共用部の机で、絵を書いたり、パソコンで動画を作ったりしているところをよく見た。


残りの半分は日本人だ。日本人の住人は、全員、仕事を持っていた。職種は、プログラマー、飲食店店員、コールセンター受付、看護師など、さまざまだ。


特殊な仕事の人も、二人いた。


ひとりは、起業家。アフリカで起業するという。若くはない人だ。たぶん、50歳は超えている。当面の目標は、アフリカで旅行会社を立ち上げることだそうだ。日本からアフリカへのツアー旅行を企画したい、と言っていた。今度の春には、日本を離れ、アフリカへ戻るそうだ。

旅行会社だけではなく、他にもやりたいことがたくさんあるらしい。中古車の輸出なども手がけているらしかった。アフリカで連続的に起業して生きていくそうだ。


もうひとりは、地下ボクサー。私と同じくらいの年齢で、筋肉が隆々とした人だ。彼は、毎日夜遅く、24時くらいに帰ってくる。それまで、トレーニングしているのだろう。しかし、ボクサーという職業は、チャンピオンにならないと食っていけない仕事のはずだ。彼の体は鍛え抜かれているが、年齢を考えると、十分なお金を稼ぐことは難しいように思えた。

彼はたまに、シェアハウスの住人を自分の試合へ招待した。私も一度、見に行った。定員100人くらいの会場で、彼は試合をした。目の前で繰り広げられる殴り合いは、形容が難しいほど、迫力のあるものだった。

彼は、イベンターでもある。10人くらいしか入らないような小さな会場を借りて、イベントを開催していた。

そのイベントも、私は一度、見に行った。そのイベントの出演者は、みんな本業を持ち、副業兼趣味のような形で芸能活動をしているようだった。

この地下ボクサーの人の生き方は、私には想像もつかないものだった。どこからどう見ても、収入が安定しているとは言いがたい。それでも、ボクシングも、イベントも、やらずにはいられないのだろう。

イベント出演者の人たちも、お金で動いているようには見えなかった。私の知らない価値観で行動している人をたくさん見て、これまでの私の世界がいかに小さいかを思い知らされた気持ちになった。


この地下ボクサーの人は、好きなことで生きている人だと言えるだろう。収入は不安定なのだろうが、目の前の幸福を確実に手にしているように見えた。他人の価値観に振り回されず、自分のやりたいことを見つめて実現していく姿を、美しいと感じた。


ユートピアとしてのシェアハウス

ユートピアという言葉がある。遠い未来、人類の理想がすべて実現し、すべての人が幸せに生きている世界、というようなものを指すことが多い。


私は、シェアハウスという場所は、ユートピアを部分的に実現しているのではないか、と感じるようになった。


ある番組で、思想家の東浩紀が言った言葉が印象に残っていた。彼の言葉はこうだ。


「様々な国、様々な文化圏で、様々なユートピアが語られているが、それらに共通する要素が2つある。それは、労働からの開放と、家族の解体だ。」


シェアハウスは、上記2要素のうちの後者、家族の解体を実現し、ユートピアを部分的に実現しているように思えた。


シェアハウスでの生活は、素晴らしく楽しい。

シェアハウスの住人は、お互いに家族とは言えない。しかし、多くの楽しさや幸せを実現していた。その確固たる実績が、私の目の前にあった。家族を解体された状態で、幸せな場所が形成されていた。


家族ではないから、わざわざ一緒に過ごす必要はない。しかしシェアハウスでは、共用部にいると誰かが来る。そして、どうということはない会話をする。その会話に義務はない。能動的な選択としての会話があった。


お互いを縛らないからこそ、一緒にいることの価値を信じることができる。


たとえば、友人と一緒に時間を過ごしたい、と考えたとする。もし、その友人を自分の家の柱にロープで縛り付けて動けなくしたら、一緒にいても、幸せを感じることはないだろう。その友人がそこにいることが、自由な選択の結果ではないことがわかってしまうからだ。

物理的に誰かを縛る場面は、実際には、ないと思う。でも、言葉で相手を縛ることは、よくある。


友人、恋人、夫婦、家族、という言葉は、相手を縛る。ロープと同じようなものだ。そして、シェアハウスは、ロープのない世界だ。


私は、家族を解体した。家族を埼玉の自宅に残し、このシェアハウスに住んでいる。そして大きな幸せを享受していた。

私は、家族を解体することで、幸福が増えた。短絡的に考えれば、そういうことになる。


家族というものは、過剰に価値が高いものとして語られていることが多いと感じる。

家族と仲が良く、幸せに生きている人は、たくさんいるだろう。でも、それは家族という呼び名とは関係ない。幸せの源泉は、お互いの信頼だ。家族という呼び名は、幸せを作らない。


家族という言葉は、血縁者と仲が良くない人たちには、呪いとなって降りかかる。ひどい親を切り捨てられない子どもなどは、その典型例だろう。もし家族に価値はない、と信じることができれば、ひどい親から離れ、幸せに生きることができるはずだ。


家族というものの価値は過剰評価されている。このシェアハウスに住み、その考えが補強されたような気がした。


離婚

私と妻は、離婚の可能性について話した。


シェアハウスに住み始めて9ヶ月ほど経った。私は、シェアハウスでの生活が、すっかり気に入っていた。

一方で、離れて住んでいる状態を継続すれば、妻は不安になるだろうと考えていた。私たち夫婦は、今、普通でないことをしている。今後もこの状態が長く続くだろう。この先、どう生きていくのかを、話す必要があると感じた。


私と妻は、お互いの不幸を望まない、という点で、強く一致していた。離れて住んでも、私は埼玉の自宅で暮らす妻と息子に、それまでと変わらず、生活に必要なお金を供給した。贅沢できる金額ではないが、普通に暮らすには十分な量だ。

妻も、別居を選択した私を責めるようなことは一切しなかった。私の決断を尊重してくれていた。通勤電車の辛さ、睡眠時間を削られることの辛さについて、私の主張を信じた。私が副業に没頭したいという気持ちも受け止めてくれた。私が言うことにはそれなりの意味があるはずだ、という信頼があったように思う。

私は、毎週末、埼玉の自宅に帰っていた。帰ると、息子は喜んでくれるようだった。接触する時間は少なくなったが、会っている間の時間は濃密になった。


私は、妻を開放し、自由に生きられるようにした方がいいのではないかと感じていた。私が妻を、この家に縛り付けているという罪悪感があった。


私の妻は、私の母親と折り合いが悪い。私の母親は、妻を嫌っている。

母は、私たちの結婚に強く反対した。

妻は、バツイチ子持ちで私と結婚した。私の母から見れば、息子の妻としては想定外の人物であったろう。気持ちが乱れることは理解できる。ただ、反対は極めて強硬だった。母は、その人と結婚するならば私は自殺する、と言って反対しつづけた。それに抵抗し、最後には無視して、私たちは結婚した。


私は、結婚後、母に対して弱腰であり、従順だった。反対を押し切って結婚したところまでは良かったが、そこで力尽き、従順になった。

息子が産まれたあと、母は、毎週のように私たちを呼び出した。

母なりに、私たちと仲良くしたいという努力をしていたのかもしれない。しかし、呼んだら必ず来い、という強い圧力を感じた。私たちは、うんざりしていた。


私は妻へ、この点で負い目があった。私は、母に従順な態度を取ることで、妻へ大きな苦痛を与えているという自覚があった。その自覚がありつつ、それを解決できないでいた。妻に申し訳ないと感じていた。


私は、離婚したほうが良いのではないか、と妻に聞いた。妻は、そうかもしれないと答えた。妻は、何のために結婚を継続しているのかわからなくなることがあった、と言った。


離婚すれば、私の母と妻は関係を断つ理由がつく。妻にとっても私にとっても、大きなメリットだった。


私は、離婚せずに、私の実家との連絡を断つことも妻に提案した。しかし妻は、それはできないでしょう、とだけ言った。妻は、夫の親とは交流し続けなければならない、という価値観を持っているようだった。これまでの私の弱腰な対応も、影響しているのだろうと思う。


妻は、私の幸せを作れていない。私の不幸の回避に協力してくれているが、幸せは作れていない。私は、妻の人生を、私が空費しているような気がしていた。私と離れれば、妻は、どこかの誰かの幸せを作れるだろうという感覚があった。


少し会話が途切れたあと、妻は、妻の友人たちが私を褒めていたことを、ぽつりぽつりと話した。子連れの人と結婚できる人なんて、今時、そうはいない、と。そういう私を褒めるセリフをこの場で言える妻は、素晴らしい人だと感じた。そういう素晴らしい妻に苦痛を与えていることを考えると、改めて強い罪悪感を持った。


妻は、私を、娘の父親として認めてくれた。私は、その点で、妻へ強い感謝の気持ちがあった。妻も、私が娘の父親になる、と決断したことに、大きな敬意を持っているようだった。


私は、妻が子連れ結婚であることを、自分の利益として利用している部分がある。

初めて会う人に、私には血が繋がっていない娘がいる、と言うと、多くの場合、相手の印象に残るようだった。私は大抵、自己紹介としてそのことについて言及した。

私は40歳だ。このくらいの歳になると、子どもについての話題は、どうしても出てくる。連れ子結婚なのだという経緯を話さないまま娘が24歳だと言うと、大抵、相手は反応に困る。だから、先回りして言ったほうが良い面があるのは確かだ。

しかし、それに言及することで私は、印象が良くなるという利益を得ている。いつも、つい、積極的にこのことを話していた。いやらしい行動だと感じていた。

だから、妻に敬意を伝えられると、後ろめたい気持ちになった。


私は、母と縁を切ることについて、正面から対処することができなかった。だから、離婚、という言葉で自分に理由付けをした。

私は、母に、お前が嫌いだ、と言えなかった。別の理由で出てきた離婚のプランを利用し、離婚するなら妻と母は関係なくなる、という理屈で、母との断絶を実現しようとしている。

情けない現実だと感じた。しかし、今の私の強さでは、離婚という言葉を利用しないと、できないことのように思えた。


財産分与については、私名義の資産を全て吐き出して妻に渡し、息子の教育費も私が支払い、妻の生活費としての月次の支払いはゼロ、という方針で合意した。妻は、住む家に関する心配を大きく持っているようだった。私の資産を全て出すと、自宅の近所のマンションを、一部屋買うことができそうだった。それを買ってそこに住む、と妻は言った。

離婚の時期は、明確には決めなかった。2年後くらいだろう、と話した。


妻は、買ったマンションには、いつでも遊びに来ていいからね、と言った。娘も息子も、私には会いたいと言うと思う、と付け加えた。私は、ありがとう、と言った。


副業の成功

離婚の話をした頃、私は弱気になり、副業について仲間に助けを求めた。儲かっていなかったからだ。


この副業は元々、私がボランティアでやっていた作業から始まった仕事だ。最初はお金をもらえるアテもなく、作ってみたい、という気持ちのみでプログラムを組み、システムを立ち上げた。

今年はシェアハウスに住み、時間ができたので、新規機能の開発に本腰を入れた。安定稼働を実現するとともに、自分の創作意欲を満たすことができた。しかし、コストも増えていた。


私は、お金は要らない、私はただこれを作りたいのだ、というセリフを言うことがあった。それを言うのはカッコ良いことだ、と考えていた。しかし、本当の気持ちは違う。本当は、お金も欲しい。創作欲と金銭欲が混ざりあった状態で、私は副業の仕事をしている。

私の副業は、ほとんど利益が出ていなかった。今年は、投入する時間もコストも大きくなった。それに比例して、お金の心配が増えた。

事業というものは、利益が出ないと長く継続することはできない。私のサービスを買ってくれている企業は、すでに存在している。それらの企業は、私の事業がストップすれば困ることになる。

自分の中の、創作欲と金銭欲のバランスは、自分でもよくわからない。しかしともかく、今年は手元のお金が失われている。3年後にゼロになるペースで現金が減っていた。

今考えると、この時はまだ、緊急性の高い状態ではなかった。しかし私は、離婚の話をしたことで心が塞ぎ、弱音を吐いたのだった。


何人かの副業仲間から、大丈夫か、と声をかけられた。仲間、というよりは、私の師匠のような人たちだ。

その仲間が、私のサービスを宣伝してくれた。私のサービスに、大きな価値を感じてくれていたのだ。そのあとすぐに、問い合わせが殺到するようになった。


私は長年、機能開発ばかりに時間を注ぎ、営業活動をしてこなかった。私は典型的なプログラマーで、喋るのが下手だ。その欠点を、仲間が補ってくれた。

お前の仕事は価値がある、お前は私たちを助けている、だから協力するのだ、という意味のことを言ってくれたのが嬉しかった。また、自分から全く売り込んでいなかった自分の振る舞いを恥じた。


仲間の力添えにより、お客さんが増え、私の副業は利益が出る見込みがついた。


一瞬のうちに、お客さんが増えた。仲間に感謝した。この1年間悩んでいたことが一瞬で解決したのだ。こんなに簡単に解決するなら、なぜもっと早く助けを求めなかったのだろう、と少し後悔した。しかし、仲間たちはみんな、とても忙しい。簡単に頼るのは、間違いであるように感じていた。


私の副業は、私が作ったシステムを、お客さんから毎月の使用料をもらいながら使ってもらう、という形態だ。システムは、ほとんど全てを自動化してある。私の創作意欲として作りたいと思っていた機能も、すべて作成が完了した。利益が出る見込みがつき、お金の面でも安定した。

この仕事は区切りがついた、と感じた。


副業の仕事が落ち着いたということは、シェアハウスに住む意味が、一つ失われたということになる。私は、副業の仕事に時間を投入したかったからこそ、会社の近くのシェアハウスに住んだのだ。


私は、これからどうしよう。


解体の継続

私は、別のシェアハウスに移ることにした。


引っ越し

年末で、副業には一旦の区切りがついていた。使命感を持ち、強い衝動に駆られながら走り抜けることができる仕事だった。サービス自体は、数年程度は継続させることになるだろう。しかし、作るべき機能は全て作り、利益が出る見込みもつき、私の仕事は、なくなった。


私は、他に、やってみたい仕事を見つけていた。年末に、ある会社の困りごとを聞いたのだ。それを解決してみたかった。

それは、解決できるかどうかわからない、特殊で小さな困りごとだった。そういう特殊なニーズは、大きな会社だと手を出しづらいことを、私は経験的に知っている。私のように自由に動けるプログラマーが解決するべき問題だ、と感じた。

なにより、作ってみたいという衝動が私の中にあった。


それを作るためには、時間が必要だ。だから、本業の会社の近くに住み続けたい。そして、通勤時間は短ければ短いほどよい。


私は本業の職場の近くに、別のシェアハウスを見つけていた。今のシェアハウスからだと、職場までバスで15分。その新しいシェアハウスだと、徒歩で10分だ。バスを待たなくていい。それが魅力的に思えた。

年が明け、仕事に区切りがつき、条件の良いシェアハウスを見つけた。移動するなら今だろう、と感じた。


この楽しいシェアハウスを離れることについて

昔の私なら、この楽しいシェアハウスを離れるという決断は、できなかっただろう。


このシェアハウスでの生活は素晴らしかった。離れるのが寂しいという感覚は、今も強く持っている。しかし一方で、別の場所での暮らしも経験したい、という気持ちも大きかった。


私は、楽観主義になったのだと思う。

昔の私なら、手にある楽しいものを捨てて新しいものを手に入れる、なんてことはしなかった。しかし、私の中の判断基準が変わった。新しく手に入るものは、おそらく楽しいものだろう、と考えるようになった。


数年前に、プロゲーマーである梅原大吾の本を読んだことがある。その中で、彼は「変化は善」と言い切っていた。それを読んだ当時の私は、たぶんそうなんだろうけど、そんなに簡単に変化できないよなあ、と感じた。

しかし、プロゲーマーという、人類初の職業を切り開いた人の言葉だ。重みがあるように思った。

その言葉を、少し自分のものにできたような気がした。


カニを食べに行ったこと

引っ越しの手続きをした頃、娘が久しぶりに埼玉の自宅に帰ってきた。

私と会うのは半年ぶりくらいだ。何かうまいものでも食おう、何が食いたい、と聞くと、カニにしよう、と言った。カニは、妻の大好物だ。娘は、妻を喜ばせたいのだろう。

私も、カニを食べに行くのは賛成だった。妻にカニを食べさせるのは、私が妻に幸せを提供できる、貴重な手段だった。

妻は、無邪気な様子で喜んだ。久しぶりに、妻と娘と息子と私、4人でカニを食べた。


家族を解体した感想

私は、家族を解体して、幸せになった。


通勤時間がなくなり、苦痛が消えた。

本業の仕事が楽しくなった。

副業の仕事も、うまくいった。

シェアハウスでの暮らしも、素晴らしく楽しかった。

妻と子は、離れて住んでも、不幸になっていないように見える。


家族という言葉を、有害なロープだと感じるようになった。

緩やかに縛ることは必要なのかもしれない、という考えも、少しある。しかし、家族、という言葉の縛り方は、強すぎる。


私にとって、家族の解体は、たぶん良い選択だった。しばらくは、この方向で、生きていく。


<終わり>